5年前の今日あの時、東京の小さなオフィスビルの5階にいた。横揺れで重いガラスの窓が勝手に開き、振り落されるのではと机の下に丸まった。あちこちで物が落ちたり割れる音がする。これまでとは明らかに違う揺れに、いつか来ると思っていたものがついに来た、このままビルが崩れて最悪ここで…(阪神淡路大震災の映像がよぎる)、キーンと耳鳴りがするほどの緊張感と圧迫感のようなものの下でじっと息をひそめた。静かだった。
その瞬間というのは、一刻一刻の揺れの成り行きに神経が集中して、ほかに何も考えられない。もっと安全な場所へ機敏に移動するといった行動もできない。ただじっとしている。自分以外のこと、例えば周囲の状況や、他の人がどうしているか、気にするのはもっと後になって少し落ち着いてからだ。家族すら思い浮かべられなかったことに心が痛んだが、あとで「まずは自分の身を。自分を助けろ!」が緊急非常事態の鉄則と聞いた。非常時は非情も許される。
しかし、震源地のような極限で生き残ったひとは、そばにいながら救えなかった命を自分の罪のように背負い込むことがある。自然災害だけでなく戦火、飢餓、事故、テロなど、多くの死の現場で、ぎりぎり生き残った人たちの足取りは重いことだろう。経験や記憶が重すぎる。
0308 a man |
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