2016年1月28日木曜日

陶芸家もつらい

陶芸家もつらい。絵と同じく作品は一品もの。こちらのつらいところは元手がかかること。窯や工房の製造、土や釉薬などの材料費、窯焚きに使う薪などの消耗品、焼き締めの陶器になると十日とか二週間とか連続で窯を炊くから手伝い(窯番)の人件費も必要だ。まとまった数をいっぺんに焼くし、火や熱による作用は神様まかせだから、出来損ないも出る。出来損ないの方が多いこともある。

出来栄え、かかった費用と時間、技術、実績、プライド、客や商人のふところ具合など色々もやもや考えて作品に値段を入れるが、そうそう売れるものではない。百円ショップの器と作家の作品に機能の差はないが、値段は数百倍以上違ってくる。名前で売れるようになるまでの辛抱は並大抵ではない。桃山の、古唐津のと賞翫されて国宝や文化財になっている陶磁器でも、そこに作家の名前はない。製作者の存在は地に沈み作品だけが天に舞い上がる世界。

陶芸家はいう。「画家はいいよな。絵なんて、元手がただみたいなもんだ。それに五百年経っても名前が残る。こっちなんて落としゃ割れるし…」。すると「ぐだぐだ言ってねえで黙って土をこねれ!」と叱られるのだ。



0125 a girl





2016年1月27日水曜日

小説家と画家

誰でも知っているような小説家が「本一冊書くのに半年。最近本も売れないから、せいぜい行って1万部。年二冊出しても300万にいくかどうか。コンビニのアルバイトに稼ぎで負けてる作家がいっぱいいる」とこぼしていた。人気作家でもこれが実態。多くの「まあまあの作家」(それでも文芸賞の受賞実績あり)では、初版の3千部とか5千部売り切るのが一杯で、再版はなし。これだとさらに収入は半分になってしまう。

それでも小説はまだ登竜門があるからいい。一発当てて世にでる道が開けている。芥川賞、直木賞になるとマスコミが大きく報道して、注目される。画家はどうだろう。毎年大きな美術展があり、作品を持ち込めば出展の可能性もないわけではないが、いかんせん地味だ。仮に出展がかなったとしても、それだけだ。賞金もない(コンクールに出して上位になると「お買い上げ」というのはあるが)。

画家は言う。「小説はいいよな。当たればどんどん刷って大量販売がきく。音楽だってそうだ。絵はそういうわけにいかないからなぁ」。すると「そういうことを言っているから画境が深まらないのだ。むかし北斎とか池大雅はな、無欲恬淡のひとであって…」と叱られるのだ。画家はつらい。




0123 for gatelykta



2016年1月26日火曜日

女のブルース

和歌や俳句は言うに及ばず、歌謡曲の世界でも七五調は多い。特に演歌。

あなたかわりは(7) ないですか(5)
日毎寒さが(7) つのります(5)
着てはもらえぬ(7) せーたーを(5)
寒さこらえて(7) 編んでます(5)
おんなごころの(7) 未練でしょうか(7)
あなた恋しい(7) 北の宿(5)      阿久悠作詞「北の宿から」

下記なども完璧な七五調反復。

おんなですもの 恋をする
おんなですもの 夢に酔う
おんなですもの ただひとり
おんなですもの 生きてゆく

どこで生きても 風が吹く
どこで生きても 雨が降る
どこで生きても ひとり花
どこで生きても いつか散る       石坂まさを「女のブルース」

七語はさらに3+4に分解でき、語句の刻みが心地良いリズムになっている。あのサザンオールスターズもハチャメチャなようで結構…

好きにならずに(7) いられない(5)
お目にかかれて(7)
今何時(5) そーねだいたいね(7)
今何時(5) ちょと待ってて(7)
今何時(5) まだ早い(5)     
胸騒ぎ(5) のこしつき(5)        桑田佳祐「勝手にシンドバッド」より

最後の「のこしつき」は「残し尽き」(残しつつやがて消えていった)と聞いていたが、これは「腰つき」だった。



0121 for gatelykta

2016年1月25日月曜日

墓地

墓地が好きだ。散歩の途中に墓地があると立ち寄って墓碑を見て回る。俗名、命日、享年などを読んでまわるのだ。戦地で散った命、僅か数歳で世を去った命、青春の死や働き盛りの死もあれば、長命の家系もある。様々な、それぞれの死が刻まれた石の前に立ってしばし空想の時を過ごす。
西洋では亡くなった人物を象徴する「墓碑銘」を刻む習慣がある。有名なところでは「生きた。書いた。愛した」(スタンダール)。ジョークぽいのもあるそうで、「お楽しみはこれからだ」(フランクシナトラ)「だから病気だって言ったじゃない!」(イギリスの喜劇人スパイクミリガン)「起きることが出来なくてすまないな」(ヘミングウェイ)などがある。
こんな墓地だったら帰れなくなりそうだ。



0119 for nikolai blokhin

2016年1月22日金曜日

飛行機

丹那の上空は羽田や成田を発った飛行機のルートになっているらしく、毎日定刻に富士山の左肩、西の方角をめざして飛んで行く機影が眺められる。特に朝の8時半前後はラッシュタイムで、数分おきに次々に飛んでいく。この飛行機の便名、機種、目的地、高度や速度などをリアルタイムで地図上に表示するアプリを見つける。「ごおー」と空から聞こえたらアプリを開く。すると伊豆半島を横切る機影マークが動きながら表示される。
地図は引いたり寄ったりができるので、試みに世界地図レベルまで引くと、主要都市や地域によっては今現在飛んでいる飛行機で埋め尽くされたようになる。その数に圧倒される。いまどの国や都市に向かってひとやモノが集積しているのか、文明の熱量が航空機の量で示される、といえば聞こえはいいが、世界の空はいまこんな状態になっているのか、ちょっと呆然としてしまった。



0114 a man

2016年1月21日木曜日

夢は夜ひらく

二度寝するせいか朝方よく夢を見る。夢といえば…1970年。藤圭子が歌った大ヒット曲の歌詞はずっとこうだと思っていた。

きのうまーぼぅ(幻)
今日と見ぃ
明日は情事か健忘か
恋ははかなく過ぎてゆき
夢は夜ひらく

<詞の勝手解釈>
きのうは幻のように遠く思われたひとが
きょうは現実のものとして目の前にいる
あすは深い情を交わし合う仲となるのか
それとも忘却の彼方へ去ってしまうのか
・・・

現在過去未来の時間軸の中で定まりなき男と女の関係を簡潔な言葉で描いた傑作だと思っていた。特に幻を「まーぼぅ」と縮めて言い捨てたところに、やさぐれた女の境遇が忍ばれ、藤圭子のイメージと重なる。情事か健忘か、といった言葉の響き合いも実に文学的だ。しかし40年ほど経って初めてこの詞を目にして衝撃を受ける。

きのうマー坊
きょうトミー
あすはジョージかケン坊か
・・・

全部男の名前だったのだ。勘違いのままでいたらよかった。しかしよく考えてみると男の名前を並べながら、意図するところは上の解釈と同じようなものかもしれない。あるいは、男の名前に解釈のような意味をかぶせたダブルミーニングだったのか。
作詞家の石坂まさをも藤圭子も同じ年2013年に没している。



0113 a man



2016年1月20日水曜日

デビッド・ボウイ(David Bowie)

音域の広さ、とくに低音の太い響きは、繊細な印象に似合わず、その違和感が魅力だった。あまりロックを聞かず、ナマのコンサートにも行かないが、デビッド・ボウイの来日コンサートには何度か行った。都会的な洗練と退廃、ああこれがブリティッシュの匂いかと思った。今年1月10日没。69歳。

今冬いちばんの冷え込み。室内温度2度。周囲に雪なし。富士山はついに真っ白。時折、風が鳴る。上は5枚(綿シャツ+ヒートテックシャツ+タートルネックのスウェット+ウールのセーター+フリースの上着)、下3枚着込んで、頭に帽子、首にマフラー、手袋に靴下2枚重ね。「寒波どっからでもかかってこいや!」のダルマの誕生。



0112 David Bowie

2016年1月19日火曜日

唐人お吉

幕末の伊豆下田で実際に起きた悲劇。下田の人気芸者だった斎藤きちは、当時来日していた米国領事ハリスに愛妾として差し出されてしまう。本当はハリスが体調を崩したためその看護にあたる女性を求めたのだったが、勘違い(または籠絡を意図)した関係者がきちを強引に説得して送り込んだという。ハリスは敬虔な独身主義者だったため、きちは程なく戻って来たが、周囲は「異人に身を売った女」としてきちを蔑み、冷たくあたる。排除され仕事もままならないきちは次第に酒に溺れ生活はすさんでいく。最後は下田の川淵に身投げして自殺。その亡き骸さえしばらく川べりに放置されたままだったという。歴史悲話として小説や映画、芝居などの演目にもなっている。
太地喜和子が伊豆で水難事故死したのも「唐人お吉」を演じているときだった。



0111 kichi saitoh

2016年1月15日金曜日

居酒屋

(男)外へ出たなら雨だろう
(男)さっき小雨がぱらついた
(女)いいわやむまで此処にいて
(女)ひとりぐいぐい飲んでるわ
(男)それじゃ朝までつきあうか
(男)悪い女と知り合った

阿久悠先生作詞「居酒屋」。サビの部分は、
「絵もない 花もない 歌もない 飾る言葉も 洒落もない そんな居酒屋で」

山にはそんな居酒屋もない。



0110 for nikolai blokhin

2016年1月14日木曜日

新スケッチブック

この紙を使うのは年末に続いて二度目。ざらざらした質の悪そうな茶色い用紙。線を引くとまるで紙やすりの上に描いたようにザリザリと音がして炭を削っていく。伸びも悪い。荒々しい表現にはこういう紙も面白いかもしれない。気分が変わるメリットもある。
しかし、それにしても変わったスケッチブックだと思って表紙をよく見たら、大きく「SCRAPBOOK」とあった。



0109 a man

2016年1月13日水曜日

初氷

今朝。野鳥の餌やりに使っているガラスの灰皿が凍りついている。毎年、1月のこの時期から3月にかけては木の実も少なくなるので、リンゴの皮を細かく刻んで入れてやる。すぐにヒヨドリが飛んでくる。冬は木の葉っぱが落ちるので、野鳥観察にはよい。古来、多くの歌人・俳人が野鳥に心を寄せた作品を残している。ひたひたと沁み入るような孤独感が背景にあるものが多い。野に餌がなくなると人家の庭にやってくる冬の雀たち。そんな一羽を読んだ句だろうか。

けふの糧に幸足る汝や寒雀 (久女)



0108 for nikolai blokhin

2016年1月12日火曜日

富士は青く梅白く

暖冬。この時期、光り輝く白頭を見せる富士山も今年は雪がまばら。ここ丹那からは宝永火口の大きな窪みが正面に見えるが、それも今は黒い地肌を晒している。枯れ残ったコスモスが咲いていたり、蕾がほころんだ梅の木もある。 しかし今朝は一気に冷え込んだ。これからしばらく冬の絵は陽射しが入る昼間に限る。今年最初の絵がやっと。



0107 for nikolai blokhin

2016年1月8日金曜日

芸術の大敵

朝酒飲むのも、少し贅沢なものを食べるのも、寝てばかりで何もしないのも「お正月だから…」これですべて言い訳がたつ。確かに日本人は勤勉なので、こういう自堕落が許される時間は貴重だ。みんながネコのようにだらだらしている、という横並びの安心感もある。

しかし安逸こそ芸術の大敵で、お正月だの初詣だの新年会だのといった世間並みに静かに背を向けることは、芸術を志すものの最初の一歩というものだろう。

自分の創作のペースが乱されるのを何よりも芸術家は厭う。年末年始のテレビだったが、北斎は毎朝、龍の絵を描くのを日課にし、これが仕上がるまでは客が来ても会わなかったという。作家も仕事場を借りて会社員のように定刻に通って書く人がいる。一流のスポーツ人もまた、決まったルーチンを自分に課し、頑なにそれを守るらしい。自分の型をつくり、その型に嵌めて毎日繰り返すのが大事で、自由人だからといって放埒な生活はしていない。

普通の正月:芸人だらけのテレビを見ながらこたつで団欒
凡庸な芸術家:「俺は俺の道を行く。正月も関係ない」といつもより気張って創作
一流の芸術家:普段通り淡々と創作
天才または変人:正月がきたのも知らずに創作

正月を理由に創作を休むなどはもってのほか。アウトなのである。去年最後の絵。



1228 for nikolai blokhin

2016年1月7日木曜日

描けない

芭蕉先生が「月日は百代の過客にして(奥の細道)」と仰る通り、日々はただ過ぎに過ぎゆくばかり。お茶の道具の茶杓入れをもとめて、それを木炭入れにして持ち歩き、どこに在っても絵が描けるようにと一応は整えた。これ一本では心もとないので、山道で拾った笹竹で自作の木炭入れも作った。これで山を下っても旅先でも、紙さえあれば絵が描けるのである。この道具立ての簡便さが木炭画のよいところ。寸暇を惜しむ態勢はできた。

しかし、新年になって絵はまだ描けていない。食っちゃ寝している間に年末年始が過ぎてしまった。酒で頭がぼんやり霞み、胃もたれがして体も重く、のたのたして今日になる。今日から気を引き締めていく(予定)。



左が自作。折れやすい細身の木炭入れに。