2015年10月31日土曜日

フルトヴェングラー(Furtwangler)

カラヤンは人気者という感じがあるが、その先輩格にあたるこちらには「熱烈な信者」が多い。20世紀で最も偉大な指揮者としてこの名前をあげる人も少なくない。長身痩躯、長いつる首、ゲルマンの頑固一徹が偲ばれる風貌。しかし音楽は繊細で情感豊か。このひとのアダージョを聴くと体が溶け出すような感じになって、なぜだか知らないがそのまま眠ってしまうことがある。活動期はナチスドイツが台頭した大戦の時代に重なる。1954年没。68歳。

首から下は簡略にしたほうがとも思うが、この人は首に特徴があるので、結局こうなった。



1001 Furtwangler

2015年10月30日金曜日

カラヤン(Karajan)

20世紀を代表する指揮者としての名声とは別に、映画俳優のような渋い容貌、黒づくめの衣装に白いマフラーを好んだという艶やかな装い、自家用ジェットやスポーツカーを乗り回すスターのようなかっこよさは世の多くの人を魅了した。貴族の家に生まれ、音楽の英才教育を受け、その音楽的才能が開花してからは順風の人生。富も権力も喝采も手にした男は、同時に羨望や半目、嫌悪の対象でもあったことだろう。成功には等量の苦難が、才能には応分の悲劇が花を添える。カラヤンはあまりにも揃いすぎるのだ。晩年はしかし持病に苦しむ。1989年夏、自宅で死去。81歳。

絵が硬い。きっとモデルのせい。



0930 Karajan

2015年10月29日木曜日

絵はウソをつく

絵には有るものが無かったり、より大きくなったり小さくなったりということがある。木炭画でも細部を簡略化したりボカシたりするのは実際にそう見えるからではなく、絵の効果を高める技法(単に面倒だからというのもあるけど)としてやっている。人間性の解放が叫ばれ、絵も印象や主観が尊ばれるようになった頃から、絵は作家の意図を表現するものになってくる。こうなるとそれはもうフィクション。
リンゴの絵は、目の前のリンゴを描いたのではなく、リンゴを題材にしたフィクション。きっとそれは実際のリンゴよりもチャーミングだったり、毒々しかったり、いびつだったりする。心に残る、鮮やかなウソをつきたいものだ。


0927顔

2015年10月28日水曜日

似ているか

よく知られた顔がモデルだと似てるかどうか気になる。「似顔絵」という言葉がある通り、関心がそこへいってしまう。知らない顔だと気にならないかと言えば、そうでもない。対象をできるだけ忠実に描こうと、意識が向かう。まずは写実。しかし作品として出来上がってくると、似てるかどうかは関係なく(知らないから)、存在感や生命感、風貌の味わいみたいなものに関心が向く。無名の民を描くほうがトクになる、というのが今日の結論。



0925顔

0926顔

2015年10月27日火曜日

若さ

老人ばかり描いていると若い人も描きたくなる。シワがないぶん早く仕上がる。顔の味わいはないけど、いきいきとした表情やいのちの輝きみたいなものが出てくれば成功だと思う。歯を出した笑顔は特に難しい。歯の間の線が目立つといけないし、線のないマウスピースのようになっても悪目立ちする。
歯の美しい笑顔は魅力的だが、絵にするのは厄介だと知る。



0916少年A

0917少女A

0918少女B

2015年10月26日月曜日

ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)

「わたしたち老人が、追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、わたしたちは何であろうか!どんなにつまらなく、みじめなものであろう。しかしわたしたちは豊かであり、使い古された身体を終末と忘却に向かって運んでいくだけでなく、わたしたちが呼吸している間は、生きて輝いているあの宝の担い手であるのだ」
ヘルマン・ヘッセ『人は成熟するにつれて若くなる』より



0911 Hermann Hesse

2015年10月23日金曜日

絵になる顔というのがある。美醜を超えて凝視に耐えられる顔。内面から滲み出すなにか、人生の歩みの刻印を留めた顔。そんな顔に出会うと絵にしたくなる。描いている間に、この人はどんな人だったのか想像するのも絵を描く楽しみだ。若い人より老人の顔が多いのは、顔に刻まれたいろいろが有名無名を問わず多くのことを語りかけるからだろう。

0909顔

0910顔

0915顔

2015年10月22日木曜日

写実の壁

実際に絵を描いているとどうしても対象をあるがままに描写する「写実」という問題に直面する。
行ったことはないが、たぶん絵画教室などでは、「よく見て描け」「あるがままに」というのは最初の一歩なのだろう。しかし実際にやっていると馬鹿馬鹿しくなるときがある。

どんなに苦労しても写真に敵わないじゃないかと。単に写すだけでは作家性みたいなものはどうなるのか。なんの創造性もオリジナリティもない、写すだけの絵は技術であって芸術ではないだろう!みたいにね。写実は時間も手間もかかって面倒なものだから、真剣に取り組んでいると必ずその壁にぶつかる。何十時間、時に何百時間も費やしても、その絵が「えっ!これ写真じゃないの!」では作家は浮かばれない気がする。

印象派とか抽象派とか言われる作家たちも、やっぱりこの壁からジャンプしたのだろうか。
今回からは「顔」。2枚目3枚目は初めて使用する紙。シワ目が入っている。1枚目は定着液がダマになってしまったようだ。

0907顔

0908顔1

0908顔2




2015年10月21日水曜日

裸婦みたび

今回の裸婦は二時間ほどかけて細部までていねいに描く。使った用紙は定番、炭は3種全部(ヤナギ、クワ、ミズキ)。一番多用したのはミズキ。この炭は鉛筆でいうとH、硬めで薄い書き味。細かく描く時に使い勝手がよい。肌の立体感はヤナギを塗って伸ばす。陰の部分はクワといった具合。

もっと細部まで描くことも可能だと思うが、鉛筆画にはかなわないし、木炭画の個性が出なくなっては面白くない。


0904裸婦

0905裸婦

2015年10月20日火曜日

裸婦ふたたび

デッサン用のポージングの本(裸婦)を購入。これを見ながらデッサンする。炭の種類を替えたり、今回は新たな画紙を試してみることにする。最初の4枚はヤナギ。薄墨のような柔らかな色で、ぼかしもよく伸びる。紙は最初の2枚がいつもの定番。3枚目は定番よりも表面のざらつきが大きい紙、炭は同じでもかなり違った書き味になる。4枚目は縦横に細かい筋目の入った紙。この筋目に沿って炭が定着するので仕上がりにも紙の質感が強く出る。5枚目は紙はいつもの定番、炭はヤナギとミズキの2種。

用紙によって木炭画は相当印象が違ってくることを知った。好みからいうと3枚目、4枚目は紙のアクが強くて使いづらい。特に4枚目は裸婦には使えないと思った。




0827裸婦

0828裸婦

0831裸婦

0901裸婦

0902裸婦

2015年10月19日月曜日

肖像画

写真がまだ世になかった時代、対象をリアルに描くのは絵師の仕事だった。
世界で一番知られた肖像画「モナリザ」。
レオナルド・ダ・ヴィンチがこれを描いたのは16世紀のはじめ、その頃まだ油彩は新しい技術だったようだ。肖像画は油彩のジャンルとして確立し、王侯貴族たちは競うように自らの姿を絵に留めた。当時の日本にこの技術が伝わり、戦国武将たちのリアルな肖像画が残っていたらと思うことがある。しかし、日本画では花鳥風月はモチーフになっても、自らがモデルになるというような感覚や自意識もなかった。

昔のリアルな肖像画が残っていないのは、技術の問題というよりも、どちらかというとカルチャーの必然という気がする。


0826マリリン・モンロー

0824男の横顔

0824女の横顔

0825帽子の婦人

0825女の足

2015年10月16日金曜日

速さと精密さ

デッサン、スケッチ、素描、クロッキーなど言葉はいろいろあるが、要は短い時間で全体像をつかんだり、表面的な細部は置いて、対象の本質をざっくりとらえる絵の世界がある。かと思えば鉛筆画などでは数十時間を費やしてモノクロ写真と見まがうようなリアルな作品も仕上げたりする。髪の毛一本一本まで描き込む職人芸のような世界。

木炭はどちらにも対応可能な画材だと思う。柔らかい木炭を使って即興画のように描くことはもちろんだが、硬めの木炭を鉛筆のように尖らせれば、細かな書き込みもある程度可能だ。
初めのうちはいろいろ試してみる。飽きっぽいからちょうどいい。



0819老婆

0803肖像画1

0803肖像画2
0821女の顔
0817椅子に座る女

0818おんな
0820祈るおんな

2015年10月15日木曜日

白と黒の世界

木炭画(墨絵、ペン画や鉛筆画なども)はモノクロームの世界。色の濃淡や陰影、質感などは表現できても色彩そのものは出せない。そのため油彩などの下絵として利用されたり、絵の練習のためのデッサンに使われることはあっても、木炭画そのものを最終の作品とするのは意外に少ないそうだ。

木炭画は炭の棒を紙にこすりつけて描く、なんとも素朴というか古風な手法。紙も表面にある程度のざらつきがないと具合が悪い。しかも粉末の定着が悪く、紙を叩いても粉が落ちるし、擦るとすぐに色が飛んでしまう。夢中になっていると手や服でこすってしまい、せっかくの絵が駄目になる。こういう短所を逆に特長として活用して、塗っては消し、重ねては飛ばし、置いては伸ばし、といった作業を繰り返しながら、だんだんと白と黒のあいだにある微妙な階調を出していく。

木炭画で黄色いチューリップは表現できないけど、そのかわりチューリップの別の何かを表現できるはず。通常、人は色のある世界を見ているので、モノクロームの世界はそれだけで異質。10枚のチューリップの絵の中に1枚、モノクロの絵が混じっていたら、たぶんそれだけで目を引くだろう。
昔は写真もテレビも映画も白黒だったが、いまはカラーで超細密が当たり前。だから逆にモノクロが目新しく、それを使ったCMなども出ている。木炭画にも人の目を惹きつけるちからがあるはず。

色の向こうにあるなにかが見えてきたら、きっと絵もうまくなっているだろう。

0723裸婦

0728裸婦

0729安井曾太郎模写

0730肖像1

0730肖像2

2015年10月14日水曜日

省略

マティスのデッサン作品を模写してみる。
模写してわかるのは、マティスの「省略」のすごさ。実物(モデル)を見ながら、ここまで省略した線で描くのは容易ではない。写実的に描くほうがよほど簡単だと思う。うんと少ない線で対象をとらえる。線の数は少なければ少ないほうが本質が現れる、ということか。

それにしても(ホンモノは!)なんという艶っぽい線だろう。こんな線を自分のものにできたら。あのしなやかでたゆたうような流れの線。
もうひとりの天才ピカソは4本の線で女性を描いた。模写は楽だが、女性を描けと言われてここまでシンプルに描く才能!

線の数が少なくなれば、技術よりも才能が問われる。

0718マティス作品の模写1

0719マティス作品の模写2

0731マティス作品の模写3

0817マティス作品の模写4

0719ピカソ作品の模写

2015年10月13日火曜日

7月の裸婦(その2)

裸婦デッサンの面白さは、短い時間でそれなりに表現できること。
輪郭をざっと描いて、立体感や陰影は炭の粒子を指で伸ばして表現する。
手足が最も難しいが、細かな部分は省略したり、顔の表情なども飛ばしてしまう。つまりデッサンではこうした「ごまかし」がきく。

しかし、面倒な手足や顔の表現から逃げていていいのか、と思い始める。

0715裸婦

0716裸婦1

0716裸婦2

0716裸婦3

0717裸婦1

0717裸婦2