2016年4月27日水曜日

タケノコ

春になると土からいろいろなものが芽を出すが、その中でも最大・最強の横綱が孟宗竹のタケノコ。すさまじい速さで成長する命の塊で、皮を剥くと、むっとするような「薀気(うんき)」が漂う。先の柔らかい部分が噛むとほろほろと崩れて好まれるが、大人になると根本の固い部分のほうがえぐ味があってタケノコらしい、という人も多い。過剰包装なので、節々がきれいに見えるまで剥くと意外なほど小さくなってしまう。先のほうは白い姫皮を残しながら雑に剥くと食べるところが多くなる。どう食べても旨いが、バターで焼いて醤油をたらすと絶品。

たけのこや 稚きときの 絵のすさび(芭蕉)



0420 a bamboo shoot

2016年4月26日火曜日

ガラス瓶

昭和の液体はガラス瓶が標準だった。いまほとんどがペットボトルかアルミ缶に置き換わってしまった。しかし値の張る液体は今でも瓶が主流で、酒や香水などはペットボトルでは具合が悪い。外国産のミネラルウォーター(瓶入り)が水割りによいと聞いて求めたが、酒の値段と変わらなかった。中身をよく見せるためには容れ物が大事ということなのだろう。
美術品も、名のあるものはそれなりの装い(絵の額、掛け軸の額装、陶磁器の桐箱など)に収められて、あたりを払うような威厳をもたせてある。だから大抵の贋物にはよい服が着せてある。反対にむき身の裸で転がっているようなものの中に掘り出し物があったりする。

中身か外見か難しいところで、中身の価値は分かりづらいが、外見は分かりやすい。
「そんなもの中身に決まっとる!容れ物なんざ、中身がなくなったらただのゴミじゃ」
本質はきっとそうなのだが、そう単純にもいかないところがあるわけで。



0419 a bottle

2016年4月22日金曜日

ばっくしゃん

死語のお蔵に入ってだいぶ時間がたつ言葉のひとつ。最後にナマで聞いたのは30年以上も前。初めて耳にしたのも確かその頃で、昭和30年代ボーイですら、馴染みが薄い言葉だった。自分自身が使ったことは一度もない。バックは英語でシャンはドイツ語、その合成語というのはいま調べて知った。「見なよ。あの子のバック。シャンだねぇ」ちょっと気取った学生あたりが街なかで使い出したのが始まりだろうか。映画「若大将シリーズ」で、田中邦衛あたりが言ってそうだ。
今の日本語表現で、後ろ姿を褒める言葉が見当たらない。「後ろ美人」という言葉はどこまで普及しているのか。適当な言葉がなくても困らないほどに、必要とする機会が減ったのかもしれない。ヘタに褒めると、逆の意味(前は…)にとられて、厄介なことになりそうだ。



0414 back

2016年4月21日木曜日

孤独

いつからだろう。この言葉が負の響きをもつようになったのは。ひとりぼっち。疎外。寂しい。暗い。どん詰まり。絶望。死。大きな時代の流れのなかで、人が漂流して最後に辿り着く場所。そんなニュアンスがこびりついている。
自由。晴れ晴れ。伸び伸び。気楽。気まま。鳥さんこんにちは。人が人生を見つめ、楽しむために努めて実現したい境遇・時間、人間本来の自然な姿、みたいな側面もあるのではないか。陥るものではなく、求めるものとして。耐えるものではなく、味わうものとして。
集団の中で協調して生きる、その習いがあるから、孤独にはドロップアウト感がつきまとうのだろうか。孤独の中から生まれるものっていっぱいあるのだが。

動物にも群れるものと単独で生きるのがいる。
「おーい、どこへ行くんだ」
群れを外れたペンギンに声がかかる。
「ほっといてくれ!」



0415 lonely penguin


2016年4月20日水曜日

みどり色

山はいま緑に染まっている。日ごとに色を深めていく若葉の緑の微妙な変化の中に、銀毛に包まれた白色系の淡いぼかしや、花が咲いたような赤錆色の芽吹きが交じる。そのさまざまな自然の中の色にも固有の名前がついていることに驚く。萌葱色(もえぎいろ)あたりはポピュラーだが、老緑、裏葉柳、山鳩色、松葉色、金春色…名前からして美しい。

http://irocore.com/category/green/

この丹念な仕事はさすがに日本人だと思う。ひと目、ほぼ無限とも見える山の色の違いを切り分け、それに相応しい名前をつけた(緑だけではないが)。誰の仕事かしらないが、漢語や大和言葉などの古典に通じた学究と文学的、美的素養がないとできそうにない。名前そのものが創作作品のようだ。
印刷などで色を指定する際にはインクの色ごとに識別番号があるので、それで足りる。であるのに、こういうことをする。えらいひとがいるものだ。

風景画はやめた。どうもまずい。手前は樹ではなく、立ち上がって月を見ている獣(クマ、鹿など)にでもすればよかった。



0407 moon on the lake

2016年4月15日金曜日

うなじ

女性は一生のあいだにどれほど化粧や体の手入れに手間暇をかけるのか知らないが、ほとんど前側ばかりで、後ろ側は置き去りにされているように思う。ひょっとしたら「うなじ」などと言っても、今の若い人は「?」ではないだろうか。髪を上げない限り見えないし、第一自分自身にも見えない。こんな部分に手が回るはずがない。ポニーテールなんかだと健康的な首筋に後れ毛が絡むのもいいものだし、別に手入れがされてなくても問題ないかもしれないが、和服はさすがにそうはいかない。和服は首筋が命。女性の体のほとんどを包み隠してしまう和服だが、逆に首筋だけはさらけ出す。だからふだん見えないこの一点の美に視線が集まる。
和服を着る機会が減って、うなじという言葉も美も衰退していく。



0413 kimono woman

2016年4月14日木曜日

嫌なやつ

昔の田舎では、犬の放し飼いというのが結構あった。こういう犬に限って「嫌なやつ」が多かった。悪い上級生の場合と同様、放し飼いの犬がいる家の前を通るときは、少し前から様子を伺い、いるのかいないのか、緊張しながら歩いたものだ。相手が子供だと、余計に舐めてかかる。自転車で通ると吠えながら走ってきて、顔をひきつらせながら必死でペダルを漕ぐと「今日はこれぐらいにしといたろ」といった感じで悠然と追うのをやめる。自転車がいけないのかと手前で降りて押して通ったこともある。まるで関所だ。そのくせ、おっさんが大きな自転車をよたよた漕いでいても何もしないで寝ている。本当に嫌なやつだった。

この犬はよい犬。悪いのは赤毛で短毛、口周りが黒い、と決まっていた。



0406 good fellow

2016年4月13日水曜日

へちま

大振りな実が蔓からぶら下がっている姿は呑気な光景ではある。風が吹いても揺れるばかりで、落ちることは滅多にない。泰然自若。人間、生きていればつらい目にもあう。逆風にもさらされる。「ああ、もう駄目かも…なれるものならヘチマになりたい。あやかりたい」へちま強しの句。

向かい風 なんのこれしき へちまかな



0413 hechima

2016年4月12日火曜日

かえるになりたい

裸婦、猫、(こんにゃく)、カエルと軟体ものが続いている。別に意図はない。描いていると皆同じようなものにも思えてくる。カエルはうずくまっていることが多い生物だ。何を思うのか、ただじっとしている。その様子を見るにつけ、人の世の慌ただしさ、頭の上にある空も雲も遠くの山も、見えぬげに、ただ走り回っている。常に追い、常に追われして、流されていく、ああ人はかなしいなあ…そんな呟きが聞こえてきそうな句。

悠然として山を見る蛙かな(一茶)




0404 a frog

2016年4月8日金曜日

朧月夜

美しい曲だ。一番は夕月の下に広がる菜の花畑と遠い山並の春景色を絵画的に描写し、かすかにふく風に春の香りを運ばせた。二番は叙情的に、人間も含むすべての森羅万象を霞の中に包み込んでしまった。伸び伸びと大きく、それでいて繊細。ひたすら美しく、ひたひたと情感に迫ってくるものがある。

里わの火影も 森の色も
田中の小路を たどる人も
のなくねも かねの音も
さながら霞める おぼろ月夜
高野辰之作詞 朧月夜/二番)

作詞家の高野辰之は長野県出身の国文学者。博士号を取得した論文が「日本歌謡史」で、東京芸大の教授にもなっている。多くの児童唱歌を作詞しており、ほかに「故郷(ふるさと)」「春の小川」「春がきた」「紅葉(もみじ)」などがある。彼が生まれ育った信州の風景がモチーフになったものが多いが、それらはそのまま日本人の原風景でもある。

歌に読み込まれてはいるが、話とは何の関係もない絵になってしまった。



0403 a frog

2016年4月7日木曜日

毛づくろい

電車の中で化粧を直したり、枝毛でも取っているのか長い髪をいじっている女性を見ると猫の毛づくろいを思い出す。周りも気にせず一心になってやっている。
「猫は一生の2/3は寝て過ごし、起きている間の半分は毛づくろいをしている」と書いてあったが、なるほど舌もブラシのようになっているし、あのビロードのような毛を維持するために人生(?)かけて舐めて舐めて舐めて…これは大変なものだ。見知らぬ人間にからだを触らせたくないのも道理で、触れば手の油もつくし、人間の匂いもつくのだろう。
「気軽に触らないでよね!安くないんだから」ということなのだ。



0330 cat

2016年4月6日水曜日

猫のツボ

猫好きならみんな知っていることだが、ここを触れば喜ぶという猫のツボがある。まず筆頭にあげたいのが尻尾の付け根。背中から尻尾に移るところが骨で硬くなっているが、ここをくすぐってやると、尻尾をピンと立てて喜ぶ。ほぼ間違いない。首の付け根もよい。これも背中の側。微妙なフィンガーテクニックで掻くようにしてやると嬉しそうな顔をする。次に首の下。手のひらで包むように撫でてやると首を伸ばしてうっとりとし、ゴロゴロ言い出す猫もいる。ここまでくると猫も気を許し、足元にごろんと横になって腹を見せるのもいる。そうか、お腹もさすって欲しいのかと思って撫でたら噛まれたこともあるので、お腹は危険ゾーンのようだ。犬好きはここを誤って失敗をする。

「猫にまたたび」というが、これは本当だ。またたびの瓶詰めを買ってきて実験したことがある。小さなまたたびの実の匂いを嗅いだかと思うと、一発で首や耳をこすりつけるようにしてでれでれになった。またたびの周りをごろごろ体を反転させたりして、まるで気がふれたような酔っ払いぶりにびっくりした。あれは猫の麻薬なのだ。



0402 cat

2016年4月5日火曜日

猫を産んだ

中学生の時。離れの二階で寝ていたが、ふと目が覚めると掛け布団の上で三毛猫が寝ている。迷い猫が勝手に居着くようになった半飼い猫だったが、わざわざ階段を登って部屋に来るのは初めてで、珍しいこともあるものだとそのまま寝直しに入った。しかしどうも様子が変。半身を起こしてみたら、なんと産まれたての仔猫が4~5匹、股間の上でもぞもぞしている。ちょうど股の間の布団のくぼんだところ。何じゃーこれは!!!である。よりもよってこんなところでと気が動転したが、母猫は平然と寝ている。
「これはアカン…」まるで寝小便でもしたような気持ちで逃げるように布団を這い出し、事実を親にも告げずに学校へ行ったが、帰宅すると仔猫ごと消えていた。

猫は前もってお産の場所を考えないのだろうか。田舎の家なので、納屋には藁などもいっぱい積み上げてある。行き当たりばったりにも程があるというものだ。それとも前もって下見をしていたのか。しかし考えてみれば、あそこは温かくて柔らかくてお産にはうってつけともいえそうだ。いずれにしても中学生には理解を超えた猫だった。



0329 cat

2016年4月4日月曜日

猫の土産

猫が外でつかまえた獲物をくわえて帰ってくることがある。カエルやバッタ、トンボならいいが、野鳥、ねずみとなると飼い主もちょっと慌てることになる。田舎の猫ならこうしたお土産にも幅が出てきて、蛇やトカゲなどの爬虫類が加わる。
猫の「お持ち帰り」は飼い主に褒めてもらいたいからと言われてきたが、最近では「飼い主(人間)」が狩りも満足にできない仔猫同然の未熟者ゆえ、母性本能から持ち帰るというのが定説になっているそうだ。「さあ食え!」というわけだ。狩りの指導(教育的配慮)や普段のお世話へのお礼(猫の恩返し)という説もある。猫もあれで結構気苦労があるのだと思った。



0324 a cat

2016年4月1日金曜日

こんにゃく

けふはやるきがしなひ
本日の自画像


0401 Japanese food "konnyaku"